障害者手帳を持ったキャメラマン
私は、左脳を損傷し、「失語症」と「高次脳機能障害」の後遺症を抱えています。また、「上肢右手機能障害」による身体障害と併せて、精神障害者保健福祉手帳と身体障害者手帳を所持しています。映画制作の現場でキャメラを回してきた私にとって、この障害は決して軽いものではありません。それでも、私はこの仕事と人生を諦めることはありませんでした。 映画撮影という表現を通じて、私自身の生きる意味を確かめ続けています。この原稿は病と共に歩む私の挑戦の日々を綴ったものです。
「異変は突然に」
2022年4月9日、私は岐阜県飛騨高山で映画の撮影に参加していました。撮影スケジュールの合間、宿で休んでいた早朝3時にトイレへ行こうと起き上がった瞬間、体に異常が起こりました。廊下を歩こうとするたびに右肩から床に倒れ込む、謎の「右肩ダイブ」を繰り返す事態に。立ち上がって数歩進んではまたゴツン! 酔っ払いのような姿勢でしたが、酒は一滴も飲んでいません。
「これは普通じゃない」と感じた私は携帯電話で救急車を呼ぼうとしましたが、ろれつが回らない。宿の名前すら伝えられず、自分がこれほど言葉に困る状態に陥るとは想像もしていませんでした。救急隊が発信者の位置を逆探知してくれたおかげで、ようやく搬送されました。
病院で下された診断は「脳動静脈奇形による脳出血」。30年前にも同じ病気で倒れたことがあり、その再発でした。この病気は脳内の動脈と静脈が直接つながる先天的な異常で、血圧の急上昇などが引き金となり、出血しやすいのです。禁酒、禁煙、健康管理に努めてきたつもりでしたが、完全に防ぐことはできませんでした。この診断を受けた瞬間、30年前の出来事が鮮明に甦りました。当時も突然倒れ、救急搬送された後に同じ病名を告げられた私は、それ以降、健康に注意しながら過ごしていました。 その時は出血していなかったのですが、出血という現実に直面した今、自分の限界を痛感せざるを得ませんでした。
「右半身麻痺との戦い」
今回の出血によって、右半身が麻痺するという結果になりました。右腕は力を失い、ダラリと垂れ下がったまま。寝返りを打とうとすると、腕がダンベルのように重く感じられ、まるで自分の体ではないようでした。右足は何とか立てるものの、引きずるような状態で、バランスを取るだけでもひと苦労でした。更に、言葉を発することも困難になり、食事中には唇や舌を噛むことが頻発。これまで当たり前だった日常が全て試練に変わったように感じました。それでも「今できることに集中するしかない」と気持ちを切り替え、治療とリハビリに励む日々が始まりました。麻痺した右半身は、思い通りに動かないどころか、まるで重荷のように感じました。日常の些細な動作一つひとつが難題として立ちはだかります。例えば、歯ブラシを持ち、歯を磨く。それだけのことが、これほど大変だとは想像もしていませんでした。
「MRI検査中の笑いのツボ」
治療の一環で受けたMRI検査。この検査では頭部を固定され、動かないようにと指示されます。機械音が鳴り響く中、耳に流れるBGMが唯一の楽しみでした。その日は懐かしい昭和の映画音楽が流れていて、『サウンド・オブ・ミュージック』や『男と女』といった映画の名曲が続きました。しかし、突然耳に飛び込んできたのは『エマニュエル婦人』のテーマ曲!場違い過ぎるこの選曲に思わず笑いがこみ上げてきました。検査中に体を動かすことは禁じられている為、笑いを堪えるのに必死でした。お腹が震えるのを抑えながら、「これでMRIの映像がブレたらどうしよう」と思いつつ、何とかその場をやり過ごしました。笑いが辛い状況を少し和らげてくれることもあると感じた瞬間でした。
「リハビリとユーモアの生活」
入院中、リハビリが本格的に始まりました。右手をグーとパーにする練習を繰り返しましたが、これがなかなか動かない。消灯後、ベッドの上で自主練習をしていたある夜のこと。「ウ〜、ウ〜!」と声を出しながら右手を動かそうとしていた私の様子を看護師がカーテン越しに見たのですが、何も声をかけずに立ち去りました。おそらく誤解されたのでは?と、その後、苦笑しました。
また、朝の歯磨きで起きた事件。いつものようにチューブを絞り、歯ブラシに乗せて磨いたところ泡立たない。「何かおかしい」と気づいた時には、水虫薬を歯磨き粉と間違えて使っていました。看護師に相談すると「殺菌薬だから虫歯菌もやっつけてくれますよ」と笑顔で返され、思わず吹き出しました。こうしたユーモアに支えられ、少しずつ前向きになっていきました。
「転院と新たな治療の道」
入院から2週間が経った頃、主治医から東京の病院への転院を提案されました。但し、民間救急車の往復費用が40万円もかかると聞き驚きました。「歩けるようになれば、自家用車で移動できる」と考え、リハビリに更に力を入れました。その結果、両足で歩けるようになり、自家用車で東京への転院を実現しました。
東京の病院では、頭部を開く手術とガンマーナイフ(放射線治療)の併用が提案されました。リスクとしては再出血や麻痺の悪化の可能性があるとのことでした。慎重に治療法を検討する中で、私はセカンドオピニオンを求めることにしました。
「ガンマーナイフ治療の希望」
30年前にお世話になった病院で、最新の「ガンマーナイフ治療」を紹介されました。この治療法は頭を切らずに放射線で患部を縮小させるもので体への負担が少なく、再出血のリスクも大幅に軽減されるとのことでした。1回の放射線照射で済むという手軽さに、私は大きな希望を抱きました。治療から2年半が経過した最近のMRI検査では、患部の血管が90%消失しているという結果が得られました。この知らせに私はようやく心から安心することができました。
「再びキャメラを回す」
治療が成功した後、私は再びキャメラを回すことを夢見ていました。そして倒れてから9カ月後、監督からの指名で映画撮影の現場に復帰する機会を得ました。右麻痺が少し残る私を撮影助手達がサポートしてくれたおかげで都内のロケを無事に終えることができました。久しぶりにキャメラを構えた瞬間、「また戻ってこられた」と胸が熱くなりました。監督からも「安心して任せられる現場だった」と評価をもらい、自信を取り戻すことができました。
「人生はリテイク可能」
現在、私は縦型動画のショート・ドラマ撮影や動画生成AIなど、新しい技術に挑戦しています。最新の技術は驚きと興奮を与えてくれる一方で、フィルムやアナログな映像制作への愛情も捨てきれません。映像制作の原点を大切にしながら、これからも新たな表現の可能性を探求していきたいと思っています。
振り返れば、私の人生は失敗とリテイクだらけ。しかし、それが映画制作と同じように挑戦を続ける意義そのものなのだと感じています。障害者手帳を携帯しながらも、キャメラを構え続ける私の姿が、誰かにとっての希望となれば嬉しいです。そして、これからも私はリテイクを楽しみながら人生の本番に挑み続けます。
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